東浩紀の政治的立場とセカイ系について

「思想地図」シンポジウム@東工大 1/22

論者:東浩紀北田暁大萱野稔人白井聡中島岳志(以下すべて敬称略)

行ってきた。
私は恐らく、宇野の言う「東浩紀劣化コピー」なんじゃないかと思うほど東浩紀にシンパシーを感じてしまう。
シンポジウム前の東浩紀のブログにおける政治的立場についての文章に快哉を叫んだ、まさにその通りだ、と。

総選挙とか内閣支持率とか派閥とか、そういう話にまったく関心がもてない。ずいぶん金使ってお祭りやっているなあ、としか思わない(そういうシニカルさこそが問題なのだというひとがいるのは知っているが、しかし、なぜひとはある時代ある場所に生まれたというだけで、その時代の「政治」的参加のコードを全面的に受け入れねばならないのか、それもよくわからない)
東浩紀http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

東はぶっちゃけ議会制民主主義のオルタナティブが必要なんじゃないかと語っていたのだけれど、私もそう考える。

 なぜならその「社会」は既に不可視なのだから。セカイ系は正しい世界を描いているとすら言えたのだ。
セカイ系とはネットで生まれた概念で、定義は確実に定まっているわけでは無いのだが、狭義には「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、「世界の危機」とは地球規模あるいは宇宙規模の最終戦争や、UFOによる地球侵略戦争などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。
 ここで私が注目したいのは『国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。』というところだ。
 多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れた としている。つまりこれらの作品群の発生は1995年だということである。
 この頃から、セカイ系という限定された想像力の中だけでなく現実の日本において投票率がぐっと下がっている。選挙権が20歳以上の男女に与えられた 1946年 から1993年までは安定して70%前後だったのだが、 1996年には小選挙区 59.65 比例区 59.62% と10%近くの低下を見せた。
http://www.promised-factory.com/100years_after/house/turnout-r.htmlより
 これに象徴されるように日本全体(少なくとも若者と呼ばれる世代は)が社会領域への興味を急速に失っていったのは確かに事実である。
 しかし、しかしである。我々の世代がそのことにおいて批判されるいわれは無いのではないかと私は考えている。なぜならば、我々が失ったのは今まで政治的といわれてきた領域のことでしかなく、確かに今まではその領域にコミットすることは政治的だったのだろう。私は今もうすでにそのレベルでの政治自体が意味を減退させつつあるのではないかと考えている。

「政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?」
「ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。(中略)冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひ とびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。
しかし、1990年代以降、もはや世界はそのように動いていない(ネオリベラリズムという言葉は、多くの人文系の学者が吐き捨てるように、イデオロギーとしての実質をほとんどもっていない)」
(東浩紀の「渦状言論」http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.htmlより引用)

 そう、現状においてイデオロギーはもはや2つや3つどころでなく、人の数だけ存在する。ポストモダンな今の日本ではそもそも一つのイデオロギーが再び支配的になるということを信じるということは(少なくとも我々の世代には)ファンタジーとしか見えない(それを望む人間もいるが現状そうでないことには同意するだろう)。
 そもそも、もはや我々国民が共約できる国益という想像が不可能なのだ。たとえ国民総生産が増えていったとしても高度経済成長期のように誰もがそれに比例した幸福が得られる時代ではない。
 強いて共約できるとするならばテロや災害などのリスクに対する不安でしかない。そんな状況においては『靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?』という問いが私には圧倒的な共感を持って迫ってくる。
 以上を踏まえてもう一度セカイ系について考えてみる必要がある。
 結論から言うなら、私はセカイ系という試みはすでに(少なくとも我々にとって)中間項としての社会が失われた状況下において如何に生きていくべきかの思考実験なのでは無いか。そしてさらには、創造・想像しようという試みなのではないだろうか。
 狭義の「セカイ系」は「ひきこもり」の想像力だと揶揄されることも多い。「キミと僕」だけの閉ざされたセカイを夢見る。それは誰とも共約できない世界の中で、誰とも衝突することなく生きていきたいという想像力だと私は考える。
 そしてセカイ系は狭義には「キミと僕の恋愛もの」なのだが、定義が見直されてもいて「キミと僕」はセカイ系の一部でしかない、という主張がなされている。
 例えば講談社MOOK「ファウスト」第五号( 講談社 2005年)においてセカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群であると元長柾木は述べた。
 私は恋愛という概念を中心とせず、しかし「社会領域の方法論的消去」が行なわれている作品もセカイ系と呼んで差し支えないと私も考えている。例えばセカイ系の発生に大きく影響を及ぼした新世紀エヴァンゲリオンがまさにそうだ。
 元長柾木の定義は、理想が分かり合えないのであれば、成長の基準がまさに失われているのであり、ならば成長しろ、大人になれという声は我々には意味不明なものとしてしか聞こえない。つまりRPGの勇者のように段階を踏んでレベルアップしていくような理想の形など既にない。ならば、成長を拒否するというのは当たり前のことであるし(それでも私は去年より成長している、というのは主観的に自分の採用する物語の中においてならありえる)、世界をコントロールしようとする意思というのは現実の話として社会的な中間項を通さずとも我々は世界をカスタマイズできる。例えばインターネットでフィルタリングをすることがまさにそうだし、アップルのiPodはまさにどこでも自分好みの音楽に包まれていることを容易可能にするというコンセプトで生まれている。
 以上を踏まえて、結論を繰り返す。
少なくとも我々にとって中間項としての社会はそもそもすでに無い。
ならばに中間項としての社会が失われた状況下において如何に生きていくべきか、世界はどのようにあるべきか、の思考実験をしなければならない。
 それこそがセカイ系なのだ。
 だから我々はいわゆる社会にコミットしないことを年長者から非難されるいわれもなければ、逆に現状を把握しない愚か者として非難することさえできる。
 我々は、失われた社会のオルタナティブを考えていかねばならないのだ。