ブギーポップ 沈黙ピラミッド〜記憶への旅路〜

この本のあまり数のない書評には「物語が進んでいない」という批判が散見される。
私もそうは思う。だが、結論から言うならばブギーポップが語ろうとしているのはわれわれの新しい想像力そのもの、それを突破するもの、なのではないだろうか。
それについて上遠野浩平事態が悩んでいるのではなかろうか。

この本のテーマの一つは「記憶」だ。
そこで少し思い出してみたい。めっきり話題にはされなくなったけれど、ブギーポップは、上遠野浩平は古びてなどいない。
むしろブギーポップが時代に後れたことなどないといってもいい。
おそらく「ブギーポップの続き」が提示されたとき、それはブギーポップがその概念の創設の一端を担った「セカイ系」、それに続く「決断主義」を超える何かがライトノベルから再び提出されるときなのではないだろうか。
もちろんすでに散見されてはいるけれども、私が上遠野浩平に期待するのは「突破」だ。
セカイ系」は「大きな物語」の崩壊に対するわれわれの困惑そのものだったし、「決断主義」も正しいものがない中取り合えず戦わなければサバイヴできないというメッセージだとするならばブギーポップセカイ系に対して「みんな一つになろう」という解を示し、その上でそれを否定した。
その絶望の中でも一つになろうの縮小版に過ぎない「キミとボクのセカイ」を解として提出しようとはしなかったし仮に織機綺と谷口正樹の間にセカイを見るにしてもそれは絶対視されていない(後に織機は正樹に依存しない独立した自分の道をも持つ)。

決断主義」的状況においてもただ「バトルロワイヤル」的に戦わなければ死ぬ、というサバイヴは、誰にでもある<業>、自分なりの生きていく意味を「知ることができる者は、世界という虚無、果て無き混沌の中でもあきらめることをしないものなのだ」といったそこに至るための試練(ディシプリン)として描かれる。
加えて述べるなら「決断主義」の一例として使用される「デスノート」の図式は良識を持つとされる月という独裁的な意思によって犯罪者を処罰するが、ブギーポップはそもそも最初から「自動的な」意思であるブギーポップやグローバルネットワークな<帝国>的システムによって世界の敵の可能性のあるものが消されていた。

時代が移り変わるにつれてブギーポップが物語の「悪役」にすら見える立ち位置へずれていったことは、仮に存在そのものが世界になじめず世界に傷を与えても世界を変革しようとする存在を刈り取るという行為を正義と断じることのできなくなった9.11以後には説得力を持つし、「自動的」なブギーポップを出さずに物語を作ろうとしたことも、結局ブギーポップに殺されるほどの異能の才無く、それでも今の社会に不満を持ったり、ずれてしまったりする、ブギーポップを読んでいるであろう(また作者もあるいはその自覚があるかもしれない)人間のための物語なのだ。
そして「ビートのディシプリン」では今までの作品で「世界の敵」になりそこなった外れものたちが、<帝国>たる統和機構に対しまた彼らも「マルチチュード」的な勢力としてネットワークでつながり始めた様子が描かれている。

ずいぶん荒っぽい書評になったと思うので手直しは入れていきたい。
最後に。私は期待する。
上遠野浩平が突破し新たなる世界の地平を見せてくれるその時を。
(ってこれ沈黙ピラミッド自体の書評じゃなくね)
(まぁいいじゃん、そんなこともある)