共役的次元の存在不可能性について

共役的次元の存在不可能性について

目次

はじめに「自由・この悲劇的なるもの」
第一章「共約的次元」の「共約不可能性」
第二章「非共約的次元」としての「共約的次元」
おわりに「善き生を構想し続ける国家(テーマ・ステイト)という提案」


・はじめに「自由・この悲劇的なるもの」
 福田恒存は自由について以下のように言った。「現実における少数者と弱者とにとって精神の自由こそ、唯一のよりどころであるにしても、そういうはかないものによって自己の正当さを信じうるほどにひとはみずからを強者としうるだろうか。なんぴとも孤立した自己を信じることはできない。信じるに足る自己とは、何かに支えられた自己である。私たちはそのなにものかを信じているからこそ、それに支えられた自己を信じるのだ。精神の自由の頂点においては、人は自己を証とするために、自己以外のなにものも必要としなくなるだろう。自分以外のすべての存在は、ただ自己の快楽を保証するための媒体としか意味を持たなくなる。それが自由というものの正体であり、私たちはそれを追求していくことで信頼感を失い、それはますます希薄になっていくだろう。」(昭和文学全集「人間・この劇的なるもの」p93)
 これはおそらく「自由」という概念を最も悲劇的に捉えた文章の一つであろう。私が考えたいのは、この福田の言った悲劇的であるかもしれない「自由」をどのように創造すれば、「自由」というものを享楽できるのか、ということだ。
このレポートでは課題図書であった齋藤純一「自由」における自由の定義を批判的に検証し、我々がいかなる自由を創造すれば、自由を最も享楽できるのかを探る。


・第一章「共約的次元」の「共約不可能性」
 齋藤の言う「共約的次元」の自由において我々は本当に「共役可能」なのだろうか?
『自由の共約的次元については、私たちは、人びとが現実に享受している自由の有無と程度を相互に比較することができる。そうした比較がそもそも意味をなすのは、この次元は、誰もが共通に価値を認める一群の自由によって構成されているからである。』(齋藤純一「自由」p73)しかし、だからといって、その定義が「常に暫定的なものでしかありえない」うえに、A・センの言うとおり『万人に通用しうるリストとして示されうるものではなく、それぞれの社会における公共の議論による定義/再定義に依存する』(「自由」p79)のであり、『公共の意思形成に委ねることが、その定義/再定義を開かれたものとする最も適切なアプローチであるように思われる』(「自由」81p)と齋藤も言うが、それでは『自らの選択に対して自らの責任が問われるという「ルール」そのものを――メタ・レヴェルにおいて――個人がみずから選択しているとされることによって、他者や社会の責任は解除されるのである』(齋藤純一「自由」p90) であるとするならば、その次元における「自由」はあらゆる人間に手に入るわけではなくなるか、もしくはその手に入れ方に留保がつくことも十分ありえる。齋藤は「自己選択」の概念自体を問題視しているが、しかしそれが討議の結果もたらされたのならばどうして我々は「自己選択」の概念を退けその次元の自由を「共約」できるのだろう。
 我々は、そもそも生命の保証の次元ですらそれが無条件で享受すべき「自由」だと「共約」できないのだ。


・第二章
非共約的次元における自由の擁護は、ある人びとが自らの価値(善き生の構想)によって他者の自由を制約すること、とりわけ、ある人びとが公権力を用いて自らの価値を他者に強制することを阻止するという形をとる(公権力を用いず、同じ価値を共有すると考える人々が同意するコミュニティ内でそうした価値――共通善――を追求することとはこれは決定的にことなる)。
 私は、「善き生の構想」のうちに、いかにして衣食住などの、齋藤の言う共役的自由にアクセスするか、つまり、どうやって衣食住を手に入れるかという部分すらも含まれていると考える。
 つまり例えば急進的かつ、原理的なリバタリアンの言うような「働かざるもの喰うべからず」という善き生の構想にとっては、一章で普遍的に「共約」できないと私の述べた「共約的自由」を公権力によって担保することは、働かないでも衣食住という自由にアクセスさせる状況を作り出すことであり、「ある人びとが公権力を用いて自らの価値を他者に強制すること」にあたる。
 もちろん逆も同じことである。


結論「テーマ・ステイトという提案」
 では、対話によってぶれる余地があるとはいえ、我々には「善き生の構想」を巡ってあい争うしか道は残されていないのだろうか、いや、私はそうは思わない。
 普遍的な共約的次元の自由はなく、もちろん非共約的次元の自由は共約不可能である。
 ならば、いくつもの違った共通善をもつコミュニティを乱立させればいいのである。
 具体的には、同州制のような地方分権を進行させ、各地方で「リバタリアン的自助」や「日本前期近代的共助」や、「北欧諸国的公助」など、マニフェストのように善き生き方の構想が提示され、それを公共の意思形成などで決定する
 そうすることで、共通善ごとに共約的次元の自由へのアクセス方法が公共の意思形成によって規定され、現在よりは多くの価値を肯定し、評価することのできる社会を創ることができるのではないか。もちろん、そのおのおのの共通善は制度的に可変制を残し、かつ他地方で違う共通善の実例が行われて比較考慮されているため、我々の自由の敵たる「ゆるぎのない確信やアイデンティティ」(「自由」p128)を持つこともなく、福田恒存の言った「もしユートピアというものが考えられるならば、我々がものごころついたときから死ぬまで、実生活において舞台のように演技しうる世の中」が――「演技」を、自らの「善き生」が比較考慮による相対化を踏まえて、それが絶対でないが自らの選好によって「あえて」行うというアイロニカルかつ遊戯的な概念とするなら――到来し、「自由」は実現する。

価値の旅人と求道者

BlueskYさん[理論]相対化する倫理的価値観の果てで、我々は何を選び取るべきか

http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070827/1188174264

彼はこのエントリで現在の日本のさまざまなコンテンツにおける倫理的価値観の相対化の現状と、その状況下でのどうすればいいのか、という答えを出したいが出せない。答えがないという答えを出すのも何か違う。といったようなことを述べている。

しかし、私はそれ(=価値相対化という価値)が今の時代における答えなんだと、あえて答えたい。

それはなぜか。彼のエントリの抜粋にコメントしていく形で答えていきたいと思う。
彼はこのエントリで伊藤計劃虐殺器官』を取り上げ、

私がこの作品において最も心を動かされた部分は、この作品における「良心」というものの扱い方である。近未来を舞台にしたこの作品において、「良心」はその存在を科学的に証明させられるほどのレベルに至っている。たとえば以下のように。


「良心とは、要するに人間の脳にあるさまざまな価値判断のバランスのことだ。各モジュールが出してくる欲求を調整して、将来にわたるリスクを勘定し、その結果としての最善行動として良心が生まれる。膨大な数の価値判断が衝突し、ぎりぎりの均衡を保つ場所に、『良心と呼ばれる状態』は在るのさ。

伊藤計劃虐殺器官』222ページ


しかし科学のメスを入れられたがゆえに逆に、かつては絶対的価値観を持っていたはずの「良心」という存在がその特権性を失うこととなる。「良心」という絶対的倫理的価値観に反発することによって価値を見出していた「悪意」のようなものと「良心」とが同じ地平上に立たされることとなったのである。倫理的価値観が相対化した世界。

「良心」が価値を持つということも、「良心」が嘘で実は「悪意」こそ価値あるものなのだということも、この世界においては不可能となった。

たぶん、こういう(科学的根拠を作中ではもっているのだろうけど)斜に構えた言い方、つまり今の倫理的価値観を相対化する方向の言動って別に特別じゃないはず。

割と皮肉屋な人間なら脳内で「良心」は『虐殺器官』のように定義されているんじゃなかろうか。
ほかは知らないけれど私はそうだ。

何が言いたいかって言うと、アイロニストにとって、価値相対化はひとつの「答え」となる魅力を持つ、ということだ。

ニューアカデミズムという潮流を私は直接経験したわけじゃないけど、ニューアカデミズムのころ起きたポストモダニズムもすべての価値観は等価だっていう「趣味」なわけで、以来日本では価値相対化って趣味が強まってきていたわけだ。

そりゃ、その答えに魅力を感じないアイロニストじゃない人が今の状況が「なんかちがう」と思うのは当たり前なわけで、私だって特権的な価値をもって正しいものとするという答えがまだ通ってる(地方の学校とかまだそういうのあるかもね)なんてのは趣味にあわなかったもの。

 かつて倫理的に絶対であった価値観が、やがてそれに対立する価値観と同じ平面に立ってしまう世界。それは成立するべくして成立した世界である。

たぶん、ループしているんだ。
そして彼の取りあげるベタ回帰も「答え」の見つからないまま、正しい価値などない、という批判に「知ってるよ、そんなことは」といってアイロニックにひとつの価値を肯定するムーブメントなわけで、それをアイロニックに受け取らない人間が絶対性を無知によって獲得し……と続いていく。

では、今の時代ではなく、そのループに対しての私の「答え」は、というと、全価値の否定ではなく、全価値の肯定だ。
もちろん、「全価値の否定」という価値も肯定する、客観的には正しいものなど何もないけれど主観的には正しいものを獲得できるという「答え」だ。

そして、その正しさもいつ捨て去ってもいい、自由にメタにもベタにも、スキゾにもパラノにもなれる、そんな意識を持てるということが理想ではないだろうか。

「神々の闘争」の「調停」のための一試案〜神、死にたもう

目次
・ はじめに 「趣味」で生きることのできる社会への旅立ち
・ 一章   「日本、この意味なきセカイ」
・ 二章   「自由に分断されていく自由人たち」
・ 三章   「しつけのいらない動物たち」
・ 四章   「機械仕掛けの動物園」
・ 結論   「遊戯するために生きてゆく〜テーマ・ステイト〜」


・はじめに 「趣味」で生きることのできる社会への旅立ち
『人の好みをあざ笑ったり、理解しないところで血は流れた』
 これは私がこよなく愛する銀河鉄道999の一節なのだが、これからこのレポートで言おう言おうとしているのは、この一言でほとんど終わる。
全ては相対化できるが、例え絶対の基準でないとわかっても自分の趣味だけはいまさら変えられない。それは生まれて、育った環境や生得的性質によるもので、変化することはあるかもしれないが、変化を強制されることや、趣味を妨げられることは正邪、善悪を別にして「不快」なのだ。
ゆえにその趣味によって自由に選択した価値観が相互にぶつかり合うのがマックス・ウェーバーの言う「神々の闘争」であり、日本では高度経済成長が終焉し、「大きな物語」が壊れたこの日本でもまさに実感されている。
そして永遠に決着の付かない「神々の闘争」の中で、我々も「神々の代理闘争」をしている。つまり、価値観の異なる人間に対して自分の理解を超えるゆえに自分と同種の人間以外への共約可能性を失い、自分の価値観の中への同化を求めるか、あるいは排除か。そして、さらにその対立自体への批判、その批判に対する反論、闘争はどこまでも続く。
 また、その「闘争」に巻き込まれた難民たちも存在する。『信念が少しぐらついてくるような気が鉄郎はした 絶対に美しいものも 絶対に正しいことも この宇宙には存在しないからだ 自分が正しいと思うことを正しいと思い 自分が美しいと思うことを美しいと信じるしかやりようがないらしいからだ』(松本零士銀河鉄道999』少年画法社文庫2巻第9話「ヤミヤミの姉妹」)というように誰もが自らの「信念」を普遍的な根拠もなく常に持ち続けられるわけでもなく、自らの価値観の不安定性に悩んでもいる。
 「大きな物語」が機能していたときは一般的な価値観に適合しないものは非難の対象となり、また近年でもその名残は多少残っていて、私はその現象を「善き生の構想」を阻害するものだと嫌悪してきたし、最近はその一般的価値観に適合する必要がなくなり、「趣味」を謳歌できると考えていた。だがしかし、これから考察していくが、「善き生の構想」はぶつかり合い、お互いに傷つけあっている。
 人間ひとりひとりが「善き生の構想」=その人の「神」を貫き通す姿に我々は感動するとともに、そのぶつかり合いを生む。
 私はゆえにその美しさを損なわないままに「神々の闘争」を調停しようと考えた。

本レポートは、以上のような「神々の闘争」の中で、人々が争ったり、巻き込まれること問題視し、おのおのが「自由」に「趣味」に基づいて「価値観」を選択できるような、いわば「趣味」で生きていくことのできる社会の形を結論を提出することを目的とする。


・第一章 「日本、この意味なきセカイ」
 そもそも、私たちは何故生きているのだろうか。生きる意味とはいったい何か。
 ちょっと昔まで、大部分の人はこれらの問いに気づかず生きてきた。
 「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。」と言ったのは太宰治だったが、確かに「社会変革」だとか「革命」というような言葉が現実味があった時代であったり、さらに社会はよくなっていくという状況で家族や地域、国家のために働いているという物語は生きていくには十分な意味だったろうし、また「家族」が崩壊しておらず、今ほど離婚や不倫が当たり前でなかった時代、「ロマンティック・ラブ」を求め、それによって幸せな家庭を築くという物語も説得力を持った。
 しかしそういったいわゆる「大きな物語」は今現在、存在していない。普遍的な幸福も出るが最早存在しないのだ。ことに我々の世代、いわゆる「若者」にはそれが顕著だ。
我々は実際には世界に意味などないということに気づき始めてしまった。
日本のこの現状に対して宮台真司セカイ系=自分の謎が解決すると「世界の謎」も一挙に解決する、自己の秩序回復(観念)と世界の秩序回復(現実)が同置される形式のジャンルの作品群が若者を中心に部数を増やしていることを取り上げ、それは若い世代になればなるほどコミュニケーション上の現実とデータベースのことになり、であればその中に存在する虚と実を識別するセンスが要求されないのでセカイ系のように虚実の区別がつかなくなると述べた上で、
『尊重される現実に価値を見出せないというのは、ヨーロッパはもとよりアメリカとも異なります。データベース化の普遍的帰結だとして一括するわけにはいきません。最大の問題は人間の感情の働きを正当化する――もっともらしいもの――にするメカニズムとしての<生活世界>の、欠落です。
ヨーロッパ的伝統では、第一に感情の働きがまともであるか否かを評価する際の物差しとして<生活世界>が絶えず参照され、第二に、感情の働きがまともであるような人間たちを現に育て上げる成育環境として絶えず評価されます。(中略)
<生活世界>こそが「良きもの」の源泉になります。だから<システム>によって<生活世界>を簒奪する動きには激烈な反発が生じます。(中略)
ちなみに私の用語系では「役割&マニュアル」優位の領域を<システム>と呼び、「善意&自発性」優位の領域を<生活世界>と呼びます。(中略)
<生活世界>が磐石で、<生活世界>を生きる我々が幸せになるための<システム>化と思える段階が近代過渡期としてのモダンです。<システム>化で<生活世界>が空洞化した結果、「我々のため」という正統化メカニズムが機能しなくなる段階が、近代成熟期としてのポストモダンです。具体的には第三次産業化が進んだ結果、<生活世界>の地域や家族の自立的相互扶助が、コンビニ・ファミレス的なものや役所の提供するサービスへと置き換えられる「市場化&行政化」によって<生活世界>が空洞化=汎<システム>化がもたらされます。
移民の国アメリカには「良きもの」の源泉として<生活世界>を大切にする伝統はありません。<生活世界>と機能的に等価な役割を果たすのが宗教的良心です。(中略)
日本には宗教的良心の心の共有が無いのは当たり前ですが、かつて存在した<生活世界>も空洞化しました。』(神成淳司・宮台真司「計算不可能性を設計する ITアーキテクトの未来への挑戦」) と解説した。
冒頭で述べたことはまさに<生活世界>が磐石であったから、<システム>に置き換えていく中途のことや、<生活世界>が壊れた弊害である。
さて、以上のことから必然的にこの現代日本に生きるということは、生きる意味を持っていない、ということなのではないだろうか。<良きもの>を提供してくれるものは日本には何も無い。少なくとも普遍的に共有されていないというのは、つまり生きる意味を保障してくれる何物かがこの日本にはない、ということなのだ。


・第二章 「自由に分断されていく自由人たち」
 一章で、この日本には普遍的なレベルでの「生きる意味」を担保してくれる存在が無いということを述べた。二章では、必然的に多様化していく各々の「生きる意味」=「善き生の構想」が対立しあい、社会全体での共感可能性が失われていく現状を考察していく。
 「何を話していいかわからない」「人間関係が希薄化した」という声をよく聞く。コミュニケーションの共通前提が崩壊しはじめているのだ。小さいところでは、昔は娯楽がテレビ以外に少なかったので、学校での話題は「あのテレビ見た?」であったが、今となってはテレビ以外の娯楽も圧倒的に増えたおかげで、そのコミュニケーションは崩壊した。
 共通の前提がなければコミュニケーションはきわめて表面的なものとなり、「希薄」と感じられるようにもなるだろう。
たとえば外から見れば同じに見える「オタク」だが、初代ガイナックス社長であり、通称オタキングの岡田はオタクは死んだ、と主張し、「オタクは終わった・死んだ」と何故言うかといえば、共通意識の喪失が起こった。俺たちはオタクだから、という共通基盤が壊れてきた。バベルの塔が壊れたようかのように言葉が通じなくなった。好きなジャンルや作品が違っても「世間とは違う生き方をしているオタク」のようなもの、共同・共通している文化がなくなってしまった、「俺たちは同じだという感覚より「俺たちとあいつらは違う」という差異のほうが気になり始めていることを指摘した。(岡田斗司夫オタク・イズ・デッド」19、20pより)
宮台真司も「世界の中心で愛を叫ぶ」を読んでいる人間が周りにいないであるとか、ある知識人を引き合いに出してその知識人を肯定するものは宮台の批判を読まないし、読んだとしても議論を全く聞かないだろう、とコミュニケーションのレイヤー(階層)が分離していることを指摘した(宮台真司北田暁大『限界の思考』p27〜29)
それは何を表しているのか、それは「他者」への無関心、あるいは同化・排除を望む願望であり、現代は「大きな物語」の崩壊によって、それがむきだしにあらわれてきた時代だ。
 そもそも、我々は人間が最低限の衣食住に無条件でアクセスできるという前提でさえも普遍的に共有できないモノなのだというのを自覚しなければならない。
 齋藤はその無条件のアクセスを「共約的次元」の自由と呼んだ。
『自由の共約的次元については、私たちは、人びとが現実に享受している自由の有無と程度を相互に比較することができる。そうした比較がそもそも意味をなすのは、この次元は、誰もが共通に価値を認める一群の自由によって構成されているからである。』(齋藤純一「自由」p73)しかし、だからといって、その定義が「常に暫定的なものでしかありえない」うえに、A・センの言うとおり『万人に通用しうるリストとして示されうるものではなく、それぞれの社会における公共の議論による定義/再定義に依存する』(「自由」p79)のであり、『公共の意思形成に委ねることが、その定義/再定義を開かれたものとする最も適切なアプローチであるように思われる』(「自由」81p)と齋藤も言うが、それでは『自らの選択に対して自らの責任が問われるという「ルール」そのものを――メタ・レヴェルにおいて――個人がみずから選択しているとされることによって、他者や社会の責任は解除されるのである』(齋藤純一「自由」p90) であるとするならば、その次元における「自由」はあらゆる人間に手に入るわけではなくなるか、もしくはその手に入れ方に留保がつくことも十分ありえる。齋藤は「自己選択」の概念自体を問題視しているが、しかしそれが討議の結果もたらされたのならばどうして我々は「自己選択」の概念を退けその次元の自由を「共約」できるのだろう。
 我々は、そもそも生命の保証の次元ですらそれが無条件で享受すべき「自由」だと「共約」できないのだ。
非共約的次元における自由の擁護は、ある人びとが自らの価値(善き生の構想)によって他者の自由を制約すること、とりわけ、ある人びとが公権力を用いて自らの価値を他者に強制することを阻止するという形をとる(公権力を用いず、同じ価値を共有すると考える人々が同意するコミュニティ内でそうした価値――共通善――を追求することとはこれは決定的に異なる)。
 私は、「善き生の構想」のうちに、いかにして衣食住などの、齋藤の言う共役的自由にアクセスするか、つまり、どうやって衣食住を手に入れるかという部分すらも含まれていると考える。
 つまり例えば非常に急進的なリバタリアンの言うような「働かざるもの喰うべからず」という善き生の構想にとっては、普遍的に「共約」できない「共約的自由」を公権力によって担保することは、働かないでも衣食住という自由にアクセスさせる状況を作り出すことであり、それと反する「善き生の構想」を持つ人には「ある人びとが公権力を用いて自らの価値を他者に強制すること」にあたる。
 もちろん逆も同じことである。
我々は大きな物語だけでなく、グループ内での共通前提という小さな物語すら失いつつある。隣の人間が何を考えているかの予想がつかない。ライフスタイルが同じであっても趣味・価値観は異なるかもしれないし、我々は完全に分断されている。同じという感覚から、違うという感覚へ。共感可能性が失われて、自分と違う相手には最低限の衣食住が行き届いているかすらも気にならない。社会制度の設計に人々の普遍的共感を期待することはできなくなったのだ。
最早私たちに残されたのはただ、自分一人のみの感情=私的な趣味に基づく判断だけだ。


・第三章「しつけのいらない動物たち」
 二章で、我々に残されたのは自分一人のみの感情=私的な趣味に基づく判断だけだ、と考察した。その認識に基づき現状、そのような人々相手にいかにして秩序を維持していくかを考察していく。
我々は極端な話、他者を必要としなくなった。もちろん食べるものを作る人が必要だ、とか分業が必要ない、という意味ではなく精神性のレベルでの話だ。日本のこのような現状を批評家の東弘紀が「動物化」という言葉で表している。
『「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な欲望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏―満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。(中略) …したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーブが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった(中略)…。アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。(東浩紀動物化するポストモダン講談社新書)P126-127)より』
 『「動物化」という言葉を、複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向を意味するために使っている。コンビニと携帯電話とインターネットがインフラになっている現在の社会環境は、消費者の人間回避=動物化を加速する。たとえば携帯メールのコミュニケーションは多くの人々にとって不可欠なものになっているが、それは、実在の人間と出会うことなく(したがって、出会いに生じるさまざまなリスクを背負うこともなく)、しかし「繋がっている」という実感だけは確保することができる便利な存在である。』
(hirokiazuma.com動物化と情報化http://www.hirokiazuma.com/texts/dobutsuka.htmlより)
つまり、私たちは他者を必要とせず、どこを歩いていても自分の価値観に引きこもり、他人との衝突を避けることができるようになったのだ。
 そして、唯一多くの人間(動物となってしまったかいないかにかかわらず)たちが、ほぼ普遍的といっていいレベルで同意したのは「自分は安全でありたい(あくまで、自分の生命を守るためであって他者の生命を守るためではない) 」という身体的危機にたいするリスクヘッジ、セキュリティを重視することである。 当たり前の話だが、何を考えているかわからない人間は何をしでかすかわからないゆえに、人には不安を持って接してしまう。
そして国家の側も「大きな物語」が崩壊したため、秩序を保つために権力は新たな形をとるようになる。「大きな物語」の時代では国家はまだ規律訓練権力(discipline=しつけ)をすることを、権力の源泉にできたが、
『規律訓練という権力形式は、二十世紀の初めに頂点に達し、現在はすでに衰退している。かわりに台頭しつつあるのは、情報処理とコンピュータ・ ネット ワークに支えられた「管理型」と呼ぶべき新しい形式である。規律訓練型権力は、人々に規範を植え付けるため学校や工場のような監禁環境を必要としたが、管理型権力はそのような場を必要とせず、個人の行動を数字に置き換えて直接に制御する。たとえばドゥルーズが例に挙げたのは、位置情報と個人認証を結びつけた緩やかな監視システムの可能性である。そこでは、決められた障壁を解除する電子カードを所持することで、各人が自分のマンションや地域に自由に出入りすることができる。しかし、特定の日や時間帯には、同じカードが拒絶されることも ある。このような秩序維持の方法は、門番や警備員が巡回しているわけではなく、かつ住人のいかなる自己監視(視線の内面化)も必要としないという点で、強制型とも規律訓練型とも異なる。』(東浩樹「情報自由論」第三回)
 <良きもの>を与えてくれるものがなく、規律を内面化する理由を与えられなくなり、規律訓練型権力では秩序を維持できなくなった現在(例えば学校においての学級崩壊などがそれにあたる)において、権力の側も秩序維持のために新たな形態をとり、規律の内面化の必要をなくしたのだ。
民衆の側としてもこのように管理されることは「規律」に従うということなしに、つまり自分の「価値観」を侵害されなくて済むのに、秩序が維持されるというのは利害が一致する。現在の監視社会化はこういった文脈から捉えられるべきことである。
こういった権力の台頭はセキュリティ産業の隆盛、ゲイテッドコミュニティの発生、またSuicaなどの発生を見れば一目瞭然である。そして、規律を共有することの必要のない社会が生まれつつある。
 

・四章 機械仕掛けの動物園
 三章では動物化した人々に対して国家などが秩序を維持するための権力の形について考察した。
 四章では動物化した人々はどのように暮らし、都市はどのような状態なのかを考察する。
 近年、三浦展が「ファスト風土化」ということを主張している。地方はいまや固有の地域性が消滅し、大型ショッピングセンター、コンビニ、ファミレス、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並ぶ、全国一律の「ファスト風土」的大衆消費社会となった。このファスト風土化が、昔からのコミュニティや街並みを崩壊させ、人々の生活、家族のあり方、人間関係のあり方もことごとく変質させ、ひいては人々の心をも変容させたのではないか、として近年起こっている理解しがたい形の犯罪はその影響を受けているという主張なのであるが、今まで考察してきたとおり、因果関係が逆である。こういった主張、つまり動物化批判、近代回帰(文脈を共有する<生活世界>へのノスタルジー)は流行りではあるけれど、それは一つの趣味でしかない。決して普遍化されえない。
 「ファスト風土」というのはまさにそうでない都市、例えばむかしながらの商店街、その地域ならではの個性ある町並みなどに対して「物語」を共有しない地域のことである。
 動物化した人々は、この早くて、便利な町並みで即座に欲望を満たしている。
 安価に、即座に、安易に食事や娯楽といった欲望を満たすことができるようになった。
 しかしそれを望む声ばかりではなく、「ファスト風土化」を批判する声や、そういったライフスタイルに対する批判もかなり大きなものになりつつある。
 北田暁大の言葉を借りるならば『物語的に整除されたライフスタイルの共有を求める心性』(東浩紀北田暁大「東京から考える」70p) である。
 ここではいわば「価値観」の共有を求める「価値観」と、共有する意思はなく、自分の欲望に忠実に生きたいという「価値観」同士の神々の闘争が起こっている。
 ただ、現実に日本は「ファスト風土」化し続けている。その趨勢を嫌がる人々がいるにしろ、それらが便利で、経済的には消費者にメリットをもたらしていることに間違いは無く、その趨勢は日本を覆いつくしつつある。
 そしてその趨勢に対して北田は『では「個性のある町」というのは単なるノスタルジーでしかないのか。……たぶんそうなんでしょう。だとしたら僕としてはそのノスタルジーの権利というものを考えてみたい』(「東京から考える」p231) と、「動物になる」という一つの趣味が都市空間を覆おうとしてる中、「物語を共有したい」と望む人々の趣味に応えうる都市を守るべきだ、とも言っている。
 しかし今まで考察してきたとおり、人々の感性は共感をもはや失いつつあり、ライフスタイル同士の、価値観同士が違う人々が同じ場所に住む限り「神々の闘争」は止まらないだろう。
しかし、それは仕方のないことではないか。そもそも、まったく対立する思想たち=「神々」を持つ者たちがすべてが相対化されている状況の中、同じ場に生きることにこそ原因がある。そもそも、それらの「共存」を望むことすら、一つの趣味に基づく選択でしかない。


・結論「遊戯するために生きてゆく〜テーマ・ステイト〜」
『どの人の胸の中にも 一生のうちのどこかで 一度は希望という名の光が 火のように燃えて 輝くときがあると(中略) たとえ まちがったものを めざす希望の光でも それはとても 美しいものだと…… そして――それより美しい光は 宇宙には存在しない』(松本零士銀河鉄道999』少年画法社文庫1巻第9話「水の国のベートーベン」)
 私は、この言葉のとおりだと思う。
 たとえ、それが人間の争いの元凶であろうとも、おのおのの「善き生の構想」を実現しようとする意思は美しいと感じるのだ。強靭さをもって信念を貫く、これ以上に美しいものはない、と。
 趣味でしか必然性を語れない、必然性を語ることは趣味でしかないと言った以上、私も告白しなければならないだろう。私はそういう「趣味」を持っている。
 私はゆえに「神々の闘争」を調停しようと考え、このレポートを書いてきた。

 今まで考察の部分では価値判断を避けてきたが、これからそれに対する私の価値判断、考えを述べながら結論を提出していく。
 一章において、闘争の「大義」はどこにもなく、すべての「神々の闘争は」聖戦ではなく、私闘であると明らかにした。
生きる意味などそもそも、無かったということなのだ。「生きる意味」という概念自体が権力として規律訓練が選択されていたというだけに過ぎず、それに我々は慣れすぎていたというだけの話である。私たちは何かのために生まれてきたのではなく、生まれてきてしまった。ならば、自分の形成されてきた「趣味」にしたがって不快でないように生きることがもっとも幸福なのではないか。
我々が「生きる意味」から開放され、おのおのの「善き生の構想」に生きることができるようになったという点で私は一章の結論を肯定する。
 二章においては社会制度を設計する上で、最早普遍的な共感可能性が失われたということを明らかにした。これに対して私は、そのこと自体よりも弱者の切捨てが起こり、結果として彼らの「善き生の構想」を阻害されることが起こっていることを問題と考える。
 三章においては規律を共有することなく社会秩序を保つ管理型権力の台頭を取り上げたが、これに対しては規律を強制されることがなくなり、自分の「価値観」を侵害されなくて済むのに、秩序が維持されるというのは利害が一致するということは、人はより主観的に自由になったという点をもって肯定したい。
 四章においては、「ファスト風土化」の中でライフスタイルの闘争が起こっていることを考察した。その中で私は「ファスト風土化」によって侵害されている「ノスタルジーの権利」という概念を取り上げたが、まさにファスト風土化はその「ノスタルジーの権利」≒「善き生の構想」を阻害するという点で問題である。

 そしてそれらを踏まえたうえでの私の結論は、「ホモ・ルーデンス」と「テーマ・ステイト」である。
 まず、私的な生の指針としてのあり方の提案としての「遊戯」するために生きていくホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という概念だ。
 「遊戯」とは「それ以外の思考形式とは、常に無関係」であり「直接の物質的利害」の外に置かれる(ホイジンガホモ・ルーデンス」28p)もののこと、つまり「社会的な意味」とは本質的に無関係であり、その上で一定のルール、概念に同意した仲間同士で、楽しむために行う行為である、とここでは定義する。
 ここでなぜ「遊戯」を取り上げたかといえば、我々は真のホモ・ルーデンスになることができるようになったのである。社会的に意味のあること、を我々はもはや持たない。つまり行うことすべてが、遊びの第一段階である「社会的な意味」と本質的に無関係であるからである。
 ではどうするか、楽しむために、つまり「感情=私的な趣味」をもとに遊び相手と遊び場を探すしかない。
自分が楽しむことのできるルール=「善き生の構想」を侵害しない社会制度に同意できる人間と、その社会制度がなりたっている場所を。
 何のために生きているかと問われれば「遊戯するために」と答えることのできる、意味が無くとも感情を持ってその意味に代替することができるようになるだろう。(もちろん、「意味」を語ることが「趣味」の人は、そういうロールプレイをするのだが)
 そして、遊びは「第一に何にもまして一つの自由な行動である。命令されてする遊び、そんなものは遊びではない」。この「遊戯」するために生きる「ホモ・ルーデンス」になることにより、我々は互いの同意に基づき、「遊戯」していくことで「自由」を「闘争」することなく謳歌できる。
 「遊び」は同意に基づくものであり、ホイジンガはたとえとして「国際法」をあげている。『国際法の体系、これは、たとえその基礎は形而上学的なもののなかにあるとしても、実際には遊びの規則としてのはたらきをしているさまざまな原理、原則をたがいに承認しあうというそのことによって、保持されるものなのだ』(ホモ・ルーデンスp421)
  つまり個人のレベルでは自分のあらゆる考えは結局のところ自分の「趣味」に還元される、という自覚こそが、ホモ・ルーデンスであることが、私的な個人としてのありかたとして適切なモデルであると提案する。

 しかし、上記はあくまで私的な生き方のモデルの提案であってその認識を強制することはできない。あくまでアイロニックではなくベタに社会的な意味を求める「善き生の構想」や、自覚に基づく決断主義をいやがり、ながされるままに生きていきたいといった「善き生の構想」にも応える社会のありかたを提出できなければこのレポートに価値は無い。

 よって続いて社会制度の設計思想としての「テーマ・ステイト」を提案する。
「同意できない価値観を持つもの同士が同じ場所に住んでいることが闘争の原因である」と前述したが、同じ領域で違う「遊戯」を行うものがいては衝突するのも無理からぬ話であって、遊戯ごとに領域は分けるべきであり、その遊戯に飽きたら別の遊戯に参加するために、多くの遊び場を用意し、選択できるようにすべきである。
『ある人が自由であると描くためには、彼/彼女の前に、少なくとも複数の選択肢が開かれており、その選択肢の中に、彼/彼女が自らの価値観に沿って望ましいと判断する事柄が含まれていること、しかも、その場合、彼/彼女は、その選択肢を実現するための資源に正当にアクセスしうること』(「自由」54p) が必要なのだ。
そのためにはいくつもの違ったテーマ(共通善)をもつコミュニティをテーマパークのように乱立させればいいのである。その選択、移動にともなうコストに関しても幸いなことに、流動性を高める<システム>は日本を覆いつつある。
 具体的には、同州制のような地方分権を進行させ、各地方で「リバタリアン的自助」や「日本前期近代的共助」や、「北欧諸国的公助」など、マニフェストのように「善き生き方の構想」が提示され、それを公共の意思形成などで決定する。
 そうすることで、テーマごとに共約的次元の自由へのアクセス方法が公共の意思形成によって規定され、現在よりは多くの価値を肯定し、評価することのできる社会を創ることができるのではないか。もちろん、そのおのおのの共通善は制度的に可変制を残し、かつ他地方で違う共通善の実例が行われて比較考慮されているため、我々の自由の敵たる「ゆるぎのない確信やアイデンティティ」(「自由」p128)を持つこともなく、そして選択する価値観を変えたいと望んだときの移動を可能にするのは管理権力など、流動性を高めてきた<システム>である。
社会制度に加えて、そのコミュニティではライフスタイルも一つのテーマとなりうる。
前述した「ノスタルジーの権利」などの「善き生の構想」も共同体ごとにある方向性を向くことにより表層での差異になり、共通善に加えてさらなる選択肢を提示することで「自由」は拡大する。例えば、京都の「和」のイメージや、北海道の「自然」や、東京の「システマティック」のイメージをさらに先鋭化させたものをイメージしてもらえばいいのではないだろうか。
この構想が行き着く先には、「攻殻機動隊」のようなサイバー都市から一つ隣にいけば、「ARIA」のようなのどかな自然とともに生きる都市、といったようなものかもしれない。
そうすることで、さまざまな「善き生の構想」に応えることができる。決断主義をいやがる流されたい人間にすらも、最初に生まれたコミュニティの中で順応して暮らしていくという選択肢が開けている。
この「テーマ・ステイト」こそが、私の回答であり、神々の闘争を調停する社会設計の思想だと提案する。

さまざまな価値を渡り歩く旅人となり、銀河鉄道でさまざまな星を旅するがごとく、気の向くまま流動的にさまざまな「共通善」「ライフスタイル」を持ったコミュニティたちを選択する。

 以上、それこそが美しき「神々」を闘争させず、しかも殺すこともなく美しいままに楽しむことができる方策だと結論する。
 


参考文献表
東浩紀動物化するポストモダン講談社新書
東浩樹「情報自由論」http://www.hajou.org/infoliberalism/
東浩紀北田暁大「東京から考える」日本放送出版協会
hirokiazuma.com http://www.hirokiazuma.com/texts/dobutsuka.html

岡田斗司夫オタク・イズ・デッド」同人誌
神成淳司・宮台真司「計算不可能性を設計する ITアーキテクトの未来への挑戦」ウェイツ
齋藤純一「自由」岩波書店
松本零士銀河鉄道999』少年画法社文庫
宮台真司北田暁大『限界の思考』双風舎
ヨハン・ホイジンガホモ・ルーデンス中央公論新社

ブギーポップ覚え書き

現代思想のレポートにブギー論書いてます

・全人類の普遍的無意識の執行者、ブギーポップ
「僕は自動的なんだよ。周囲に異変を察したときに、宮下藤花から浮かび上がってくるんだ。」『笑わない』43p
作者の一般意思への認識の変容(もしくは時代の変容による一般意思の変容)
『笑わない』ないている気違いじみた浮浪者に優しく声をかける

・美しさ
「その人が一番美しいとき、醜く老いさらばえる寸前に」
・霧間誠一(作者の写し身として)
「人間の可能性は善にも悪にも開かれている。(中略)それがどんなに病的で本人や周囲に破壊的であるものでも、可能性に善悪の区別はない」『笑わない』47p

・末間和子

「涼宮ハルヒの回答〜エヴァを遠く忘れて〜」

『現在の日本のアニメーションは、まさにそんな状態で、単に自己防衛に希望を語ってごまかそうとしているにすぎないんです。ついでに言うならば、情報誌的な形態を取りつづけているアニメ誌も同様でしょう。今やアニメといえばマンガやゲームからの輸入ものがほとんどです。それは、スポンサーもつくり手も観客も、その必要をさして感じていないからでしょう。自分が好きなマンガなどがセルになり、好きな声優さんたちの声が聞こえればそれでいい、ということなのではないかと思います。アニメ自体はすでに2次的なモノでしかありません。メディアの核としての力はもうすでに失ってしまっているのではないか、と感じもします。そのような状況に、僕は失望しています。』(NEWTYPE95年1月号 クリエイター対談「庵野秀明×貞本義行」より庵野
 庵野監督はこんなことを考えてエヴァを作ったのです。
そして、所信表明文によればまた「アニメの復権」を掲げて「ヱヴァ」を創っている。
エヴァは繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする、意志の話です。」(庵野秀明ヱヴァンゲリヲン総監督所信表明文」よりhttp://eva.yahoo.co.jp/gekijou/big_message.html)

 とまぁ、ハルヒ評論なのに何故エヴァが冒頭から、という感じではありますが本題です。
 「ハルヒは繰り返しの物語です。主人公がいつも同じものを探しながら、ひたすら見つからない物語です。それを楽しもうとする、意思の話です。」(筆者)
 どういうことかといえば、ハルヒはカテゴリ上ツンデレとされています。素直じゃありません。それはハルヒ個人のみならず、「涼宮ハルヒシリーズ」自体がツンデレなのです。つまり、本当はハルヒは何にも起こんなくたって見つかんなくったっていいのです。キョンと愉快なSOS団となんか色々やっていられれば。宇宙人も超能力者も未来人も異世界人もいらないよって、そういうことなのです。
 ところで、みなさん「ハルヒ」では誰に感情移入していますか?
 東浩紀せんせーは『ライトノベル的世界観の中に、感情移入ポイントとしてキョンをぶちこんだ谷川流の戦略の方が正しいかもしれない』てなことを言っていたけれど(東浩紀桜坂洋新城カズマ「フィクションは何処へゆくのか 固有名とキャラクターをめぐって」(雑誌『ユリイカ』11月号)、私はハルヒだし、僕らの世代は本来はハルヒになるべきなのではないでしょうか。というか、その方が希望を持って生きていける(笑)だってハルヒよりはキョンの方がまだ見つけやすいでしょう。
 ハルヒは一巻の「憂鬱」では本当に自分勝手なニヒリストで「それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこより面白い人間が集っていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、そのとき気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやっている普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもつまらなくなった」(小説「涼宮ハルヒの憂鬱」より)なんて言ってます。
これは今20前後の世代にはすごく親しみのある感覚ではないかな、と思います。ふと生きていく意味、自分の存在の意味、そういうものを見出すことの出来ないことに気付いてしまう「虚無の世代」が我々なのです。その発露は人それぞれではありますが、大きく分けて二つだと考えます。一つ目はハルヒのように外部への不満・改変衝動としてあらわれる。一つはエヴァンゲリオンのシンジ君のように自らへの不満・逃避衝動としてあらわれる。
 だがエヴァンゲリオンが描いたように、その姿勢では幸せになれない。それこそ、「補完」されて全体と一つにならなければ。永久の不幸を繰り返すばかりなのです。しかし自意識の強すぎる我々はその選択肢も拒否する(もちろん可否論でも不可能ではありますが)その結果拒絶される。
 今に至るまでエヴァンゲリオンの中で取り上げられた問題意識に関してはまったく答えなど出ていない。確かにエヴァンゲリオンを超えるアニメは出なかった。ただ、我々は忘れたのだ。
そんなことに悩んでいたことを忘れた。意味がないことに悩むことを忘れた。そんなことを考えているよりは、世界の方にも自分の方にも存在する意味なんかなくっても生きていけるように。それも楽しく生きていけるように意味を捏造することにした。あくまで、「意味」なんてのは遊びの道具であって、別にそれそのものに意味なんかないんだ。アニメも道具であって目的ではない故に、別にオリジナルである必要もないし、「ダンスすげぇ」だけで盛り上がっても全然かまわない。
ハルヒの主観では、日常にはハルヒの求めている本当に特別なことは起こっていない。ただ、自分で特別なことを追っかけて、捏造して、真剣に戯れている。そしてそれを仲間と共有するだけで満足している。そして、「日本中どこにでもありふれている」はずの歌ったり、野球したりする姿からですら楽しさが伝わってくる。世界はハルヒの思い通りになるはずなのに、ハルヒは「不思議」を見つけることよりも、それで遊ぶことを望んでいるのです。
そして、それがこの意味なき世界で生きていくにはどうすればいいかという命題の回答なのではないでしょうか。

 ……だから我々が萌えるべきは、キョンなのです。なぜならば、特に理由もなく、「しょうがないな」と意味なき「遊び」に付き合ってくれる人がこの生き方には必要だからです。
 さぁ、探しにいきましょう、ネタと、ネタに付き合ってくれる人間を。
 「世界を大いに盛り上げるため」に。

愛せ、そして戯れろ

BGMはエリック・クラプトンチェンジ・ザ・ワールド

毎日拝読させていただいているブログ、kagamiさんのロリコンファルを今日も読んでいたら、わたしがいっつもいってる様なことが美しく言語化されていたのでご紹介。

http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070326#p2

>>私はエロゲーマーなのですが、エロゲの大方のヒロインは、

男に身も心も全て捧げてしまう「素直な都合の良い女」と感じます…。

それはエロゲにおいて男の側のみに圧倒的に都合の良い強力な

支配‐被支配の男女階層構造が機能しているということ…。

エロゲをやっていると、男女差別的意識は私達エロゲーマーの男性の

意識に内在するように感じる、それは、どうしても、物語からそう思える…。

こちらのエントリの方のご指摘の通り、なんでこんな、どう見てもあまり

魅力があるとも思えない男性主人公に対し、こんなに素敵な女の子達が

彼を愛しまくってひどく従属的になっているのかな、と、思ってしまう…。

女性は自由に伸びやかにしているのが、とても魅力的であるのに、

男性主人公が愛で女性を従属させて、伸びやかさを疎外してしまう…。<<

まったくその通りだと思います。
私的にはもっと男性やタブー、常識などそういったものから自由な女の人を描いた芸術を欲します。
支配でも、従属でもなく、ただ、そういうスタンドアロンな男女が淡々とたまたま触れ合った接点を描く、そんなエロゲーできねーかなー。

恋愛しない(従属していない)ほうが魅力的なヒロインって多いと思います。

その彼女たちが美しさを保ったままでいるためには、やはり戯れること(100%恋愛に没入しない、恋愛を自明視しない態度)が必須であるのではないだろうか。

我が青春の(ときめき)記憶(メモリアル)

BGMは「勇気の神様」

最近、アマゾンで「ときめきメモリアル2」と、「サブストーリーズ」全部買いました。
ついでに1も買ったけど。

ほんと、中2のゴールデンウィーク潰してやったアレのせいで私は今こんなブログ書いたり、エロゲーしたりしてるのです。
というか、八重さんのせいです。

PS3でやっているわけですが、いや、ほんと、『記憶』ですね
今やると、そんなにいいわけでもない。かつ、絵ももちろん荒い。
でも、でも。初恋を思い出しているような、そんな、『ときめき』があるのです。
まさに、我が青春の記憶!