冬コミ「ニコミュケーション&ニコニコ芸術宣言」

出しました。
ペンネームは「とりっくすたぁ」でサークルは和敬塾北寮
書名は「素人の素人による玄人のための本」内で題名のとこに書いてある論題とかなり使いまわしているハルヒ論です。

では以下にコピペします。

ニコニコ動画論「ニコミュニケーション」

はじめに

「俺たちはニコニコするために生まれてきたんだ。」右上より

やっと、やっと我々は我々のための玩具を見つけられた。

我々とは、すなわち今年二十歳になったりならなかったりもうすでになっていたりするあたりの世代、戦争はガンダムの中に見た時代すら遠く、学生運動マルクス主義は最早宗教でしかなくその後彼らが作ったサブカルすらよく知らない、オウム騒動もトラウマになるほどの歳でもなくトラウマといえばエヴァショックだが、世代的に共有できるほど強烈でも無く、2chすら使いこなすには少々幼かったうえにそこでの愛国心とかそういうのがちょっと吹き上がりとか嫌韓とかそういうので吹き上がるのも、二次元の女の子に萌え萌え言ってたけどそれもでも一部な希ガス、んでもって、オタキングこと岡田斗司夫に「オタクは死んだ!」とか言われちゃって、あれ、ゲームとか、アニメとかいわゆるオタク的なもの好きで、たぶんオタクなんだろうけど……って人たちのことである。
 ずいぶんニッチな我々だな バロスwwwというところではあるのだけれど、そういう人間は今ニコニコ動画に集まってきて、ひと祭りを終えてこのコミケに来ているんじゃないだろうか。
 そこで、私の愛したニコニコ動画について語ってみたくなったのだ。
 たぶんブログに書いてろってなオナニーな文章だけれど、たまたま天文学的確率でこの本を手に取った方がいれば、20前後のオタクっぽいものが好きな似非インテリ学生のニコニコ動画に対する文章を読んでやってください。
 そう、「愛した」ニコニコ動画について。

〜テレビ→youtubeニコニコ動画へ〜

テレビを試聴する時間は一貫して減り続け、若い人になればなるほどテレビを見ない。
 まずテレビの凋落は受け手と発信者の多様化で始まった。受け手の趣味もライフスタイルも多様化して、同じ時間に同じものを見せるチャンネルが6つあるだけの地上波にかわり、youtubeなどの動画共有とにより、各人が好きなときに好きなものを見るという状況になったのだ。
しかしその状況は共通経験を核とするコミュニケーションを失わせた。(テレビをとりまくコミュニケーションはもちろん続いてはいた。例えば2chという空間での反マスコミ的キャンペーンなどがあった。2chに関しては後述するし、テレビの衰退は事実としてある)
その状況下で生まれたのがニコニコ動画(ここでは映像メディアの側面から)である。
ニコニコ動画は当初youtubeなど、他の動画共有サイトの動画を流用し、その上にテロップを流すサービスとして始まった。(現在は独自サーバーで行われている)
 ニコニコ動画ひろゆきが語った通り、「突っ込み」を共有し、その突っ込みのついた動画をコンテンツとして鑑賞するわけだが、それだけにとどまらず、その突っ込み自体が「コンテンツ」となった。
加えて、動画という形態をとるならば、それらのニコニコ文化の動画、二次創作、アマチュア作品、商業作品の渾然一体となった並列な環境とタグや検索機能によるネット自体のもつ「島宇宙化」を促進する構造がある。
一度発信源が多元化したコンテンツたちはニコニコ動画というプラットフォームを通し、そしてそのプラットフォーム自体が特有の文化を持っていて、その文化自体がコンテンツとなり得る、その結果、映像コンテンツに関して趣味の違う人間を同じプラットフォームである手間の低さ、ランキングによるアテンション、何よりおもしろいという快楽原則による誘導によって、同じコンテンツをみているという共同性と、趣味の多元性を同時に担保することができるようになった。
 またニコニコ動画には「コメントを表示しない」というニコニコ動画にとって本末転倒な気がするような機能があるのだが、「閲覧者のみる態度」の選択可能性を高めている。
つまり極端な話、もはやコンテンツは、コンテンツの発信者が望むように閲覧するように構造を構築することはもはやできなくなりつつあるのではないか。
 受け手は(多分当たり前の話なのだが)受け取りたいようにしかコミュニケーションを受け取ることはない。そして、それをアーキテクチャがそれでいいよ、と肯定する時代が到来しつつあるのではないだろうか。
 それをどう受け止めるべきなのか。

 私はそれを肯定したいと思う。
 それはもう仕方の無いことなのだから。
 そして私は消費者でしかなく、クリエイターではない。
 だから正直なところ、ニコニコ動画に出会ったとき一人の消費者としての私は狂喜乱舞し、
「俺たちはニコニコするために生まれてきたんだ。」なんて思ったりもしたわけなのだ。
 ニコニコ動画はすばらしい場所だ。何より自由だ。


匿名性のコミュニケーション
~2chからニコニコ動画へ〜

2chにもみられた、そのコミュニケーションの結果が他のコンテンツと並列に並べられて、さらにコミュニケーションの資源となり、さらなるコミュニケーションを生んでいく構造があり、かつその結果生み出された動画と、アニメ作品などの商業作品、二時創作をはじめとするアマチュアの作品と並列に並べられ、閲覧数を競うという、あらゆるコミュニケーションの並列された姿がそこにある。
しかし2chと決定的に違うのは携帯メールよりもさらに短さ、文字数の決定的短さ、どこに流れ着くか知れない、誰にも届かず流されてしまうかもしれない瓶詰めの手紙のような応答可能性の低さである。
2chでも極めて形式的な記号的コミュニケーションがとられていたとはいえ、ニコニコ動画のそれはもはや個人であることを完全に放棄している。
しかしニコニコ動画のアカウントを持つニコ厨どもは共同性を保持しているように見える。
少なくともコミュニケーションしていると感じているのは間違いないだろう(なにせグッドデザイン賞コミュニケーションデザイン部門なんてもらっているくらいである)ニコニコ動画には同じ動画をみているという共時性はない。どのタイミングでコメントを残したかがわかるにすぎないのだが、その今ではない過去の書き込みに応答する。そしてその応答にまた違う人間が応答する。
あたかも個々人が無人島に住み、その無人島で宛先のない手紙を受け取ったり流したりするような、そういったコミュニケーションがコミュニケーションとして受け入れられているのだ。
そして最近プレミアム会員限定ではあるが、NG機能が実装され気に入らない単語を含むコメントや、気に入らないコメントをしたIDをもつユーザーのコメントを表示されないようにする、映像コンテンツの箇所でも言及した傾向である、コミュニケーションを自分の受け取りたいように受け取るアーキテクチャが整備されている。
 もともと匿名のコミュニケーションには個人としての自分が傷つかないという側面はあったが、それがさらにおし進められたかたちなのではないだろうか。




・『ニコニコは誰にも平等に訪れる』 ( 02:00 AM November 08, 2007 from 右上)
 ……のだろうか?

  私は現状のメディアでは、ニコニコ動画を優れたメディアだと思う。
 が、しかしニコニコ動画にも改善すべき点がいくつか存在する。

 最も大きな難点はコンテンツ製作者への利益誘導の欠如だろう。
 現時点でもロングテール的な、といっていいかどうかはわからないが、関連コンテンツをニコニコで発表することによる宣伝効果や、などはもちろんあるけれども大部分の著作権保持者たちは直接利益の入っていない現状に不満を覚えている。

 単純な動画しか流せない(ニコスクリプト導入でコマンドによって改善されるかも)
 「動画」という形式はかなり広い形式のコンテンツをカバーするが、テキストベースのコンテンツなどは見づらさが残る。


終わりに

以上、ちょっと本を読めば書いてあるようなことをニコニコ動画を通じて稚拙に論じただけで終ってしまった稚拙な論考を読んでくれた誰か、どうもありがとうございます。
以上が私が何故ニコニコ動画を愛したのか、という理由なのだと思う。今の我々に寄り添うメディアだと感じていた。
しかし私はもうニコニコ動画を愛してはいない。
結局のところ、飽きたのだろう。
こんな稚拙極まりないものを書いて出してしまえるほどに。
 なので、論考という形ではなく、弁論という形で、感情の赴くままに好きだったころの記憶と、現状のニコニコ動画に対する怒りを書いたものを後述する。



ニコニコ芸術宣言
「芸術は死んだ、 何故だ!
 選民思想と弁証癖と意匠化によって殺されたのだ。
 それにによって、芸術はその最も大きな機能であるカタルシスを失ったのだ。
 選民思想は人に、美の秘密は作品のうちに存在せず、作品と鑑賞者の間にのみ存在するということを忘れさせ、「芸術」をして理解と解説とを拒絶させた。
 弁証癖は芸術を客体化し、コレクションする、生の息吹のない冷たい批評の対象とした。
 意匠化、これすなわち表面を飾り立てることを、芸術ではないものを芸術と混同するようにした。
 福田恒存は述べた。
『芸術は技術ではありません。演技ではなく、演戯であります。技巧ではなく、才能であります。』

 芸術とはなにか?彼はこうも言っている。
『芸術とは芸術家にとってのみならず、鑑賞者にとってもまた行為であります』
 現状、鑑賞者は黙って芸術を受け止める以外の鑑賞態度を許されていないように思える。芸術は芸術家たちのものではない。
 その意味において、芸術は死んだ。 

 我々は一つの概念を失った。しかしこれは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ! そう、ニコニコ動画は芸術を蘇生させたのだ!

 芸術とはなんのために存在するのか。最も大きな機能はカタルシスだ。抑圧された感情を解放することだ。過去それはアリストテレスが述べたように《恐怖と哀憐》だった。ではひるがえって現代において抑圧された感情とは何か。それは《歓喜と闘志》ではないだろうかと私は思う。
 歓喜とは、あの、wwwを連ねざるを得ないあの思いのことである。
 闘志とは、あの『胸にこみ上げてく熱く激しいこの思い』のことである。
 ニコニコではそのカタルシスが連日のように我々を包んでいる。
 なぜか!?
 ニコニコには選民思想は無い。あらゆる動画のうp主がうp主として認められている。
 ニコニコには弁証癖は無い。我々は客体化に興味が無い。好きなものは好きだからしょうがない!わけで世間からどう思われていようと良い動画は良い。それでいい。
 しかし、ニコニコに意匠化はある。
 最近のランキングを見て欲しい。「ミク」「キワミ」ばかりである。
 もちろんそれらの個々の動画のクオリティは素晴らしい。
 素晴らしいのだが、面白くない。それは表面を飾り立てるばかりでわれわれにカタルシスを与えはしない。なぜならそこには転倒がある。たとえばキワミ=面白いではないたまたま「キワミ」はニコニコ住民の楽しむという意思を持ったコメントにより歓喜カタルシスに満ちていた。
 だが、今のニコニコにそのダイナミズムは無い。できのいいテンプレなMADやミク歌を出してこようとも、それは職人的な素晴らしさではあっても芸術ではない。
 最も重要なのは、ニコニコでは鑑賞者にとっても行為することが許され、それが動画の一部となっているということだ。 
 演劇はギリシアの時代から、鑑賞者と俳優とでできているものであった。
 しかし劇場の観衆が死んだように静かになって久しい。

 芸術の最も芸術らしい部分は皮肉にも、あらゆるハイカルチャーの場ではなく、表層に戯れ、サブカルチャーに耽溺する人間たちのための遊戯の空間に現れることになった。
 すなわちニコニコ動画の構造は、鑑賞者の主体性を自覚させ、うp主とコメントの渾然一体となった、問いと答えの合一を顕現させるのである!

 しかし、現状はどうだ。私はコメントにも意匠化があるのではないかと問いたい。
 主体的に楽しもうと構築してきたコメント技法があった。それはたとえば弾幕であり、AAをコメントする技術であり、空耳字幕であった。
 今のコメントに楽しもうとする意思はあるか?もはやそのコメントは思考の結果ではなく、状況に対する反射の産物なのではないか?
 二つの意匠化がニコニコの素晴らしさを阻害し始めているように思う。
 このままではニコニコは、薄暗い宵闇にまぎれるように衰退していくのではないか。私はそう感じている。

 ではどうすればよいのか。
 もう一度、考えるしかないのだ。
 面白いとは何か、突っ込むとは何か。
 決して、それは決まっているものではなかったはずだ。
 もっと生命力に富んだコメントを、もっともっと画面の向こうの誰かにカタルシスを届けるような情熱に満ちたコメントを!

……さぁニコ厨よ立て!悲しみを笑いに変えて、立てよニコ厨!ニコ動は諸君等の力を欲しているのだ。    ……ジーク・ニコ!!